蘇る画人 池田月潭 OfficialSite

ごあいさつ
 池田月潭・・・日本画愛好家にも聞きなれない名前である。しかし、幸運なことに今ここに十数種の大正時代の日本絵画評価表がある。これらの中に、例えば、洛陽美術社(京都、尾崎晩雪)発行「大正拾壱年壱月調査 日本絵画評価番附」(PDF)の見開きに往時人気の画家21人の作品展示がありそこに富岡鉄斎や竹内栖鳳らに並んで「池田月潭先生筆」と記るされた「川中島 武田信玄図」を見出す時、また、扶桑美術社(東京、安田義郎)発行「大正拾壱年度全国優秀作家 扶桑絵画総覧」(PDF)に栖鳳、玉堂、鉄斎と続く最上段の中ほど37番目にその名前を見つけ出す時、愛好家の誰もが驚きを感じつつその名前「池田月潭」を脳裏に刻み込むのではないだろうか。そして、その作品を見たい、その後の活躍も知りたい、出来れば、作品だけでなく存在そのものさえ全く記録が残っていない理由も知りたい、という思いに駆られるのではありませんか。
 池田月潭の作品と人生が蘇えるドラマ・・・それは彼が大切にしていた自身の絵画人生の記録が、前述の日本絵画評価表などと一緒に、解体される家屋の物置の片隅から幸運にも直系の親族の目に留まったことから始まる。そして、多くの人たちの興味と善意が、そして何よりも彼の作品が一世紀という時空を越えて「池田月潭蘇り」をよび起こしているのである。

 月潭、本名池田龍治は明治14年(1881)に元荘内藩士池田道重の長男として東京神田今川小路に生まれた。母は、滝沢馬琴の血筋にあたる山口貞である。桐生に育ち大出東皐から花鳥風月の画法を、そして11才の頃荘内に戻り祖父の弟池田駒城の高弟田中静居に南宋画を学んだ。数年の後、東京に戻り当時歴史画の大家として知られた村田丹陵に師事し明治32年1月に雅号「月潭」を授けられ画人として独り立ちし、寺崎廣業や川邊御楯とも親交を深め研鑽を重ね実力を高め、明治36年「日本美術協会」展覧会で褒賞、大正8年第五回全国絵画展覧会および大正10年「日本研美会」全国絵画展等で一等賞金牌を得るなど高い評価を受けるに至る。この間、信越、東北、北海道各地の愛好家の要請を受けて画会(揮毫会)を各地で開催する。その数は遺されている記録に見るだけで43回、総作品数三千に達する。しかし、消えたのである。その分けは・・・
 大正12年9月1日、関東大震災の日。この時浅草元鳥越町に居た月潭は火傷を負い末弟龍三のいる長井に逃れるが治療の甲斐なく2ヵ月後に帰らぬ人となった。まだまだこれからの42歳であった。祖父長三郎とその弟駒城、また父道重らを祀る鶴岡の本鏡寺に葬られている。
 関東大震災による死者9万人負傷者6万人と云う大混乱の中で一個人の死は特筆されることもなく、加えて此の頃から始まる経済恐慌、農村の疲弊、戦争そして敗戦、戦後の混乱の中で、多くの才能ある人たちと同様に、画人池田月潭は忘れられていったのであろう。
 しかし、没後90年を経て池田月潭はここに蘇えりつつあることは確かな事実である。 日本画の美しさ優しさを知る方々に関心と協力を頂きながら「月潭」の絵を深い眠りの淵から光のある世界に復活させる道をさらに切り拓きたいものである。

連絡・問合せ先 池田道正 〒997-0032 鶴岡市上畑町8-16 ℡&Fax0235-25-0306

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